誰よりも冷たくて
 なのに包んでくれる


   009:いつか見たあの海は、僕を迎え入れてくれるだろうか

 海に潮流があるように風にも流れがある。完成されない発展を続けるこの界隈では店主も取り扱いも変わる露店が並ぶ。人々は日銭を稼いでは薄められた酒を空け腹を満たしては仕事を見つけてどこかへ去っていく。同時にそれ以上に見知らぬ顔が出入りするようになる。顔と名前が一致する頃には当人がいない。富裕層も歴史の薄さを補うように流行りに乗って人を抱え入れたり解雇したりを繰り返す。日々、流動的なそこに馴染みが生まれないことが馴染みだ。街路は人であふれ路地へ迷いこめば出てくるのも難しい。流動的なのは家屋までそうで、気づけば持ち主が変わっている。表札や門構えはそのままに中身だけがそっくり変わって、しかもそれは一度二度では済まない。役所へ届け出たものを数えただけでも手に余るし私的なことさえ含めれば目眩がする。人が集い散り生まれ死んでいく。その流れは海の流れにも似て、同じであるのに同じではなくまた一所にとどまらない。
 人待ち顔で佇んでいると葵の身形に目をつけた売人が声をかける。扱う品は様々で時に危険さえ孕む。軽くいなしたり無視したりを繰り返して葵はその場に居座った。甘い蜜菓子を勧められた時だけ葵は小銭を払った。揚げた麺麭か何かに白蜜を絡ませた簡素なもので、誰にでも作れるものだ。ちょっとした家へ行けばもっと手の込んだものが出る。それでも安価で安易なその菓子が葵は好きだ。さくさくと音を立てて食めば口の中で油や蜜が満ちる。煙草を喫むようになっても時折甘いものはほしくなる。訪う男の手土産が甘い菓子だった。その記憶がどこから来るのか葵は判らないし明瞭にしようとも思わない。どちらかと言えば塩気を好む料理法の土地柄であるが甘いものは極端に甘い。味付けが濃いのだろうと思う。どこか無骨なそれが葵は好きだ。
 目の前で揺らぐ船が出て行く。小舟は入れ替わり立ち替わり出入りを繰り返し、客船は大袈裟な別れの儀式を執り行っている。汽車のように猛々しく鳴りながらゆったりと出て行く。この紺碧を何度も渡って行ったというのに。たゆたう海面は重たげに飛沫を散らして船着き場を少しずつ蝕んでいく。潮を吹くような長旅のそれも泥に塗れた近場のそれも葵には新鮮だ。この地にねぐらを構えてしばらく経つのに港町は葵のいい暇つぶしになっている。毎日顔を出しても、同じ時間に出航するほど勤勉ではなく人々もある程度の誤差は承知の上だ。傲岸と鷹揚がないまぜになったような土地柄だ。
 ごくんと口の中のものを嚥下すると手には油紙だけが残る。まさかべとつくそれを隠しへしまうわけにもいかず葵は路地裏へ足を踏み入れた。残飯が腐乱するままに放置されている屑籠はすでに家人以外が投げ入れたとみられるごみで埋まっている。そこへぽいと放ってから葵は入り込んだのとは違う経路を歩いた。ズボン吊りを肩から外した格好であれば上着の中のシャツの裾を引っ張り出せば立派にこの界隈へ馴染む。露店の背後を窺いながら通りを選んで足取り軽く歩く。港通りへ出る通りを見つけて歩けば建物にはさまれた道を通る。道というより隙間に近い。急に開けた視界で船が汽笛を鳴らして出航する。葵の左右では見知らぬ男がそれぞれに違う品を並べている。店をやっていても通行人に売り込むような愛想はない。店の品定めを始めた相手に対してだけ口を利くのは、抜け目ない人々の性質のようだ。別れと出会いを乗せて船は切り裂くように出て行く。こうやって出て行くものを見送るのが葵は苦手だ。乗り物であればそこへ飛び乗りたい衝動にかられてしまうし、人であればなお厄介だ。さようならと振った手を伸ばして腕を掴んで引っ張り寄せたくなる。たまらないようなそれに葵はいつも悶々とする。理由も原因も判らない。ただ、無性に去っていくものを引き留めたくなるだけなのだ。
 「なにをしている!」
葵の腕や手首や、それより早く通る声が引きとめた。振り返れば整った身なりの葛がいた。葛の濡れ羽色の黒髪や白い額、細い頤が見える。睫毛さえも密に黒く、切れあがった眦を化粧のように瞬かせる。葵のなりがどこかすれたそれに馴染むように、葛は格式や厳格さといった威嚇に馴染んだ。葛のなりは早々気軽な接触を拒ませる何かがある。
「え、なに、って?」
「用事があるとも思えない格好だが」
葛の目線を追って出て行く船を見る。客船とも言うべきそこでは豊かに飾り付けた世間知らずが呑気に手を振っている。送り出す方も同様で、人々の大半は素知らぬ顔で往来を行き交っている。
「葛こそ、なんで」
「お前が店をあけているというから。なにがあったかと思えば」
そう言えば写真館は放りっぱなしだ。とくに重要な予約もないので構わぬと葵は外出を繰り返す。
「尻ぬぐいはいつも俺だ」
葛に言われて耳が痛い。ぐうと黙るのを見て葛は自然な動作で煙草入れを出した。革製で高価そうなそれに葵が目をつける。
「なにそれ。贈り主が判るようなものはご法度だろう」
葵も葛も多少後ろ暗い仕事を生業としている。思いがけず死体になる可能性もあるから、日々の暮らしや小物の扱いには慎重だ。
「だから近々、失くす予定だ」
葛はこともなげに言う。
 「名前でも彫ってあったらどうすんの」
「削って捨てる。どうせ誰かが拾って小銭にする」
動揺さえしない。
「もっとも名前が削られては、贈り主さえも俺にねじ込めない。名前がないのだから確証に欠ける。誰が捨てたか判らないことが肝要だ」
ぬばたまの漆黒が葵を映した。潤んだように瞬くその闇は蠱惑的に葵を誘う。睫毛も美貌を損なうことなく密に茂る。お誂え向きに上向くその睫毛に、葛が手を加えているのを葵は見たことはないししているふうでもない。眉さえも凛と整い、意志の強さを見せつける。
 慣れた仕草で燐寸を擦り、火をつける葛の動作を眺める。燃えさしが消えたのを確認してから葛は靴底で踏み消す。吸いこんだ紫煙を吐きだすのは唇だけで鼻へ通さないのは葛の育ちの好さだ。葵だってそれなりの生活をしていたから鼻へ通した時の煙ったさやいがらっぽさには慣れるまで時間がかかった。露店を構えるこなれた売人や日雇いの人足は平気な顔で鼻から煙を吹いた。
「生まれが出てるぜ」
「お前こそそうだろう。喫むか」
さしだされたそれは大きさの整った正規品だ。葵は口笛を吹いてから一本抜いた。吸い口もきちんとしている。噛みちぎって吐き捨てると改めて咥える。葛が手際よく燐寸を擦って火をつけてくれた。ふふっと葛の口元が笑んだ。吐息に紛れるような微かなそれに葵だけがむっと眉を寄せる。葛はすぐにその弛みを引っ込める。
「吸い方は一端だな」
「癖になったんだよ」
吐き捨てた呑み口を眺めてから葵が肩をすくめた。茫洋とする葵を押し退けて葛が隣へ佇んだ。
 身形で見れば正反対だ。葵がシャツの裾を出してズボン吊りさえ外しているのに対して、葛はシャツの襟も上着もしわや汚れ一つなくぴしりと引き締まっている。目線を交わさぬ二人が並んでも関係者だとは思えない違いがある。二人とも目線は前に据えたままで何気ない会話をする。葛は仕事でねぐらを空けることをおざなりに詫びた。葵は構わないと言う。双方共に生業の必要が生じれば何日もねぐらとしている写真館を空ける。恨みつらみを述べたところで改善はないし言うだけ無駄だ。自分の都合だけはどうにもならぬ事情を葵も葛も承知している。
 潮に犯されて抉れた壁に背中を預けて葵は煙草を喫んだ。正規品はちょっとした刺激を含みながら馴染んでいく。その辺の素人が丸める安煙草は途中で燃えたり火が消えたりする。味も違う。美味いなと思いながらどこか据わりの悪さに身じろいだ。葛は素知らぬ顔で煙をくゆらせている。
「お前は海を見るのが好きなのか」
唐突だ。葵は言葉を反芻しながら考える。
「なんで」
「よくこの場所で見かけるから。居ないと思えば港にいる。船が好きかと思ったがお前は船の装備に興味はなさそうだった」
指摘されて葵にはぐうの音もない。葵が見ているのは船そのものより、伴う別れや再会といったものだ。人の流れにのまれたいと思いながら脇に逸れて眺めているだけだ。流れに呑まれて抜け出せなくなればいいのにと思いながら身を投じることはできないと知っている。
「…オレのこと好き? 見つめられてたら困っちゃうな」
「馬鹿馬鹿しい」
葛はあっさり罵倒する。葛の罵倒は激しくないのにきつい。相手の痛手を考慮しないので痛烈だ。でも葵はその痛みが心地よいと知っている。葛がそうして牙を剥くのは知れた間柄だけで、親しみの度合いで変化する。葛が不可と判じれば冷たく距離を保つ関係が強制される。それを想えば被るのが痛手であっても、こうして感情を見せてくれるのはありがたいのだと思う。
 葛の顔が綺麗だ。手を加えずとも整った眉筋や鼻梁、唇は紅く照る。漆黒の深みのある髪と双眸。ぬばたまという枕詞が実感できる闇を備えながら美貌で魅せる。染髪や改良を必要としない美しさだ。そのままの葛が美しい。白く秀でた額や頤、顔のつくりははっとするほど綺麗だ。性別に関係なく愛でることのできる美貌だ。それでいて葛は己の影響力を明らかに見誤る。葛は、葛が思っている以上に影響力を備えている。だが葵はそれを言わない。言ったがそんなわけはないと一蹴された。だからオレだけが知っていればいいと口を拭う。知らせたくないような、一人占めしたい気持ちが強く働いた。綺麗だ美しいと思うからなお、一人で眺め愛でたかった。その紅い唇が開いてふぅと紫煙を吐いた。煙草を外す、その仕草さえ洗練されている。
「どうした」
きょろりと黒い瞳が葵を見据えた。すぐに逸らされる。それでもしびれるような快感が葵の体には走った。
 「葛って綺麗だな」
「馬鹿馬鹿しい」
葵の言葉に葛は呆れたようにふんと鼻を鳴らす。そんな粗暴な仕草さえそれなりにおさまってしまう。
「本当だよ。葛は綺麗だ」
「だから、それが、馬鹿馬鹿しいと言うんだ」
名前だって偽りなのに。三好葵も伊波葛も、その呼称は組織から与えられたものであってそれ本来のものではないのに。
「それこそ馬鹿だ、そんなこと関係ない、そのくらいお前は綺麗だ」
ふふっと笑って言う葵に葛は目を瞬かせた後に唇を震わせた。 葵の唇が煙草を吐き捨てて踏み消しながら葛のそれを奪う。喫み口を千切っていないそれからの苦みは薄い。ふぅと煙を吐くのを葛は苦々しげに見ている。葛の唇を吸うように深く口をつける葵に葛はつんとそっぽを向いた。
「綺麗なのにツンケンするなよ」
「男に綺麗と言って得られる利益をお前は知るべきだな」
数瞬の間をおいて弾けるように笑いだす。葵も葛も腹を抱えて笑った。馬鹿馬鹿しい。身分違いの交歓は珍しくないから目にさえも止まらない。通りすがりは金持ちに見える葛を相手に、いやしい葵は上手くやったと思うだけだ。葵のなりは下層民で、葛のなりは明らかに上層階級だった。
 「は…お前といると俺は俺でいることが馬鹿馬鹿しくなる」
「そりゃあどうも、オレもお前に影響できて嬉しいぜ」
プッと煙草を吐き捨てて靴底でもみ消す。喫み口を千切らない煙草はどこか初心者向けに甘い。葵は自分の隠しから煙草を出した。不揃いのそれは安価で手に入る非合法品だ。内包する煙草も不揃いで吸うのにかかる時間も違う。中途で火が消えるかと思えば燃え上がることさえある。
「あおい」
葛の唇が重なった。葛の行動に葵の方が怯んだ。葛は平素からこんなことをしない。葵の方が揶揄交じりにするくらいだ。葛の唇は潤んで柔らかい。しっとり馴染むそれに葵が怯む。吸いつかれて正体を失くした葵を嘲笑うように、葛は吸いついてから離れる。
「海が好きか」
「…好きだよ。広いから。拒否したり、しないから」
「拒絶されても?」
葛の問いが不思議だった。海は身を投げるのを拒否したりしない。それでも葛は潤んだように双眸を震わせながら、海が好きかと問い返す。葛の眼差しは真摯で、だから葵は正直になった。あの海が拒否するなんて考えられない。
「拒絶されても。海が拒むなんて考えられないけど…でも、拒否されてもオレは、あの流れにこの体を融かしてしまいたいと思うことがある」
ぎゅうっと袖が掴まれた。葛だ。白く血の色が抜けるほどに強く握りしめている。ふるふると震えるその強さに葛の想いを読みとれる。
「お前、は」
「かずら?」
葛がはっと気付いたように手を弾く。バシッと叩くようなそれは葛にとっても不意であったのだと感じさせる。葵は穏やかに葛を見つめた。
「オレは海に体を預けてしまいたい時が、あるよ」
平手打ちでも喰わせそうにきつく葛が葵を睨んだ。潤んだ双眸の睥睨は甘く優しく、同時にきつい。
「かずら?」
「馬鹿ッ馬鹿…」
それ以上の言葉はない。だがそれがすべてだ。葵は目を眇めて葛を見つめた。抱きしめる肩が震えている。ぎゅうと人目さえもはばからず葛が葵にすがりつく。整った袖から伸びる白い手が指先が、葵の乱れた裾や袖を掴んだ。震えているそれの強さに葵は茫洋と強いなぁと思う。
「お前がいなくては俺は辛い…ッ!」
泣きだしたくなるほど嬉しくて、叫びたくなるほど辛くて。だから葵は言葉を紡がない。

ありがとう、だからオレは生きてゆける

葵は笑んだ。薄く淡く微笑みながら葵は葛をなだめる。そうしながら葵はこれ以上ないほどの歓喜に笑んだ。


海のようにお前は広くオレを包んでくれた


だからオレは一人で行ける


《了》

どっちが攻め?!(待て)           2011年2月13日UP

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